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59番目にやってきた電車の中の電波男 (混ぜすぎ) [ヘボ論]

 こんちゃ。
 暑いっスね。
 暑くてウダるいっスね。
 
 ここ最近、「ペトロ三木ブログストーキング」等と言っていた割に、全然更新していません。
 僕が更新しないときと言うのは、「なんか面倒くさい」又は、「どーも愚痴しか出てこない」というよーな状況だというケースが多かったり少なかったり。少なくなかったり多かったり。
 
 まぁ全多元宇宙にて周知の如く、僕の口から出てくる言葉、又は僕の指先が書き出す言葉というのは、おおむね 「与太」、「屁理屈」、「愚痴」、「きれい事」 の4つであります。
 他のことは専門外です!
 このあたりを僕なりのカクテルグラスで案配良く配分して何かを書く、というのが僕のスタイルで、かつ僕はこの『ヘボログ』 に関しては、「屁理屈多め、というか主体」という位置づけでやっていこうかにゃー、カニカニ、上海がに、カカカ、と、まるで初芝の取締役のような心で善処いたす所存です。おいおい、また都合良く上役が身代わりってどういう事だシマコー。
 そんなワケですので、どーも精神的に鬱屈していて、愚痴成分が多くなりそうなときは、他の「うんこ垂れ流し用」のトコロにぶりぶりと垂れ流しをしていたりする事が多かったり少なかったり、少なかったり多かったり。

 
 で、久しぶりの更新です。
 ハイ相変わらずの長い前置き。
 そしてなんだかんだで、色々あったので凄くカオスな更新。


 しつこいようですが、僕は基本的に漫画しか読みません。
 そんな僕ですので、当然読んでいないのですが、『電波男』という本があるそうです。
 あるそうです、って、なんだそのいい加減な物言いは。

電波男

電波男

  • 作者: 本田 透
  • 出版社/メーカー: 三才ブックス
  • 発売日: 2005/03/12
  • メディア: 単行本



 まぁ、ちょっと前にオタク論ごっこみたいなものをつらつら書いていたので、その流れの一つとして色々ネットで見聞しておったのですよ。
 『電波男』 に関して知らない人は、こんな当て推量のへっぽテキストより先にどこかで書評を読むかサイトを見るか本そのものを読むかしましょう。
 
 以前のエントリーで、さて『電車男』にかけられた呪いとはなんじゃろうとかいう感じの事を書きましたが、この『電波男』は、その呪いを別のカタチで解き放とうという一つのアプローチであろうと。
 つまり、『恋愛資本主義』 の呪い、です。

 『電車男』 のモノガタリは、オタクに向けては、「オタクという呪いにかかっているおまえらもガンバレば陳列棚にのることができるぜ」という囁きですし、所謂“負け犬女”に対しては、「今までハイクラスな商品がイケてるってお勧めしてきたけど、実はこういうピュアな商品も御座いますのよ」 というアプローチで、新しく金に出来るコンテンツとしての“オタク男”をプレセンテーションするというものでした。
 他のトコロは僕的にはどうでも良いです。ええ。
 以前これを僕は、“オタクという呪いをかけた側の視点”から、『美女と野獣』 のモノガタリだと述べったりアーノしましたが、これに対して、『シュレック』的なモノカダリだって、あるンじゃねーの?
 という考え方が、えー、こっちです。別の本。『59番目のプロポーズ』
 残念ながら、武田鉄矢は関係ないのですけどね。

59番目のプロポーズ キャリアとオタクの恋

59番目のプロポーズ キャリアとオタクの恋

  • 作者: アルテイシア
  • 出版社/メーカー: 美術出版社
  • 発売日: 2005/06/17
  • メディア: 単行本



 こっちの内容は、僕は無闇に知っているので書けるんですけど、書きません!
 嘘。少し書きます。
 おおざっぱに言うと、「広告代理店でバリキャリやってたおねーちゃんが、オタク的な意味でハイクラスなオタク男に告白されて、試行錯誤の末おつきあいする」 お話です。
 うわ、おーざっぱ。
 「視点が違うだけで、『電車男』 の二番煎じナンジャネーノ?」 と言われる向きもあるかと思いますが、似ているようでも根底にあるのが大きく違う。
 それがつまり、「『美女と野獣』 では、結ばれるために“呪いを解く”というイベントが必須だったが、『シュレック』 では、呪いは解かれることなく、そしてオーガはオーガのままとして、ただお互いを信じ、受け入れ、寄り添うことを決める」 という違いです。
 オタク男が、金をかけて美青年になるために呪いを解いて貰う必要はないのです。
 『59番目のプロポーズ』 において、そもそも「オタクである事」それ自体の本質は呪いではないし、そして呪いがかけられているとしても、それも受け入れてゆこうという意志が、このモノガタリを形作っている。



 「オタクである事は呪いなのか呪いではないのか」
 の解釈において、『電車男』と『59番目のプロポーズ』 は、別のアプローチで語られている。
 で。
 『電波男』では、恋愛資本主義、レンアイを至上の価値と置く価値観ソレ自体が、既に呪いであるというスタンスにある。

 恋愛資本主義とは何か?
 について、簡単にはてなダイアリーの記述から引用しますと、

>個々人の恋愛行為が、メディアや広告代理店の流布する大量のイメージに縛られ、資本の論理に汚染されている状況。
>純愛物語が、安直な映画・ドラマ・書籍などによって金儲けの道具にされ(娯楽のレベルに落とし込まれ)、逆に恋愛の至高性が失われている状況。
>「年収○○○万以上でないと」のような、金持ちであることが恋愛の条件になり、愛情とお金(や車・家など)が交換可能になっている状況。
>そもそも愛情などという観念が消え失せ、恋愛・結婚がお金(や車・家など)と顔面の美しさの交換と化している状況。
>恋愛行為が、他人に相手を見せびらかしたり他人に優越感を持ったりする目的で行われ、他者の欲望を欲望するという契機のもと、資本主義的な差異の体系に(ボードリヤールの意味での「商品」を買うときのように)取り込まれてしまう状況。
>人を愛するということが、物を買うこと(そのために高い服を買う、出会い系を利用する、クラブに行ってみる、高い車を買う、高い料理を食べる等)と同一の規律として内面化されている状況。

 等と書かれておりまして、大きく分けると、
1.レンアイ関連のコンテンツで商売する側にとって儲かる方向で、恋愛という行為、状態、価値観が大きく左右されている事。
2.容貌、ステイタス、収入などの“資本力”が、レンアイを購入する基準となっていること。
 を指していると解釈できるかと。
 ンまぁ、1.と2.はかなりぶっちゃけ離れたことなんですけどもね。
 2.ははっきり言って、個体としてよりよい環境を求めるイキモノとしてアタリマエの範囲です。

 で。
 重要なのは、というか、ここでの解釈は 1. の方です。
 よーは、「こうすればモテる、これ買えばモテる」 と言うあらゆるモノを商品にして、それを売りたい人たち、売りたいマスメディア。
 そういう連中の都合に振り回されるのは、「馬鹿らしいンじゃネーノ?」 という。
 まぁ、そういうお話です。

 『電車男』 を、それまで恋愛市場に金を落とさないオタク層を、レンアイコンテンツに金を払う顧客として商品として新しく獲得し、ハイクラス志向 (バブルの頃の価値観) を引きずって “負け犬” 化した女性層を再びレンアイ市場に呼び戻すための仕掛けだとすれば、『59番目のプロポーズ』 は、「そういう仕掛けに乗らなくたって、恋愛は出来る」 という、「ポジティヴな反論」。
 で、その立ち位置と比較すれば、「恋愛資本主義にかけられた呪いなんかクソ喰らえ。俺たちオタクには萌えがあるじゃないか。脳内彼女さえいれば、三次元の女などいらん!」 と“萌え上主義” でカウンターを仕掛けようというアジテーションなのが、『電波男』

 と。
 並べて解釈することが出来るワケです。
 
 (しかし久しぶりに更新してまた長ェーな)

 で。
 ここが解釈の別れるところ。

 これを、純粋に “恋愛資本主義による呪いから解き放ち、決別する意志表明” として解釈すれば、これは“祝福” になる。
 以前も述べたりアーノ通り、特に今20代あたりのオタク層は、ザキ・トム君あたりからの、マスメディアによる「オタクは快楽殺人を好む異常者だ」 という呪いをかけられ続け、さらには、「だからお前達にレンアイをする権利はない。誰にもアイされない。レンアイを享受できるのは、我々の言うとおりにモノを買い、我々の言うとおりの生活を目指す、“ハイクラスな人間” だけだ」 と、バブル期にも延々“呪われ続けていた”。(実際には、この呪いは、現在言われる“負け犬女” や、それ以外の多くのヒトにもかけられてはいるのだけどもね)
 その呪いを解こうという意味で、この本は “祝福”である。

 け・れ・ど・も。

 コトバってのはどうしようも無くままならずに広まるモンじゃあないですか、と。

 呪いと祝福っていうのは、正反対のようで本質的には同じモノで、必ず表裏一体。
 『電波男』 で語られているコトバが、“恋愛資本主義” という価値観概念によってかけられた、
 “呪いを解くコトバであり祝福” であるのと同時に、“自身の鬱屈を、自分の中にある 「三次元の女性」というイメージに対して呪いをはき出すツール” として使用してしまう人間も。
 多分、少なくはない。

 さて僕のお得意の牽強付会的解釈になりますが。

 “恋愛資本主義” に対しての “二次元萌え至上” というスタンスは、言うなればそのまんま、現代の資本主義自由経済というイデオロギーに対するに、ニートの存在に擬えられると思うのデス。
 念のため事前に断りますが、俺はニートというモノ、存在そのものを否定も嫌悪もしていません。
 ニートの名言曰く、「働いたら負けだと思っている」 を、萌え至上主義的解釈で言い換えればそのまんま、

 「レンアイしたら負けだと思っている」 ってコトバになる。

 とにかく何をしても金を儲けることが絶対的に正しく絶対的に価値があるという価値観に対してのNoと同じく。
 とにかく何をしてもレンアイする事が絶対的に正しく絶対的に価値があるという価値観に対するNo。
 
 ここまでの解釈は、僕的に “けっこう共感の出来る部分” ではあるワケです。

 ただ、そこで。
 例えばニートが、「だから、働いている奴らは資本家の奴隷だ。憎悪すべき対象だ。総括よ! オルグっちめぇ!!」
  っていう方向で、自己の鬱屈を発露し始めたら、それは一端待ったをかけて脇に置く方がよかろう、と思うわけなのよ。

 自分の中で二元論的な対立構造を“構築”して、想念の中で“敵”を増やし、呪いのコトバを投げ続けていって作り上げた内的世界。
 それは多分、 “楽園” とはほど遠い位置にある。
 恐らくソレを言い表すとするならば、“煉獄” だろう。


 個人的に、ここ最近『電波男』 に触発されて、ネット上で発言していると思われるコトバや、『電波男』 の書評として書かれているレヴューなんかには、そういう方向に進んでいると感じられるモノがそう少なくないのではないかと、僕には思える。
 女を憎め、メディアを憎め、世界を憎め、と。

 勿論、多分、それは 『電波男』 という本の真意ではないだろうし、そう受け取っている人間ばかりでは無いとも思うけどね。

 
 前書き的にウダウダ書いたとおり、僕の4つの柱の一つに、「きれい事」 っつうのがありまして、僕はそれをある程度意識して言わないと心のバランスが保てないタイプの人間であります。
 まぁだからこの、『電車男』-『59番目のプロポーズ』-『電波男』 という3つの語られたモノガタリ、コトバを通じて落ち着かせたこの僕なりの着地点というヤツは、まぁ結構なきれい事なんですけれども。
 きれい事を言うって言うのは、まぁ結構悪くは無いですよ。
 呪いのコトバを、祝福に変えてゆこうという意志を持つという意味でも。
 この中で読んだのは1冊だけなんですけどねっ!


 そして結論として僕が一番言いたいのは、こういうきれい事を言い続けることでオンニャノコにモテモテになりたいっていう事なんですっ!
 安西先生、セックスがしたいですっ!


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petrosmiki

「恋愛資本主義」ってはてなで説明されるぐらいの
テクニカルタームだったんだ。へえ。

「愛」とか「性」とか過剰に重視されがちだってのは
前から思ってたけどね。

俺は恋愛は「必需品」じゃないと思うタチでね。
酒やタバコと同じで、興味がそれほどない奴はいる。
どちらかというと「嗜好品」。
「マスト」じゃなくて「オプション」だ。

「マスト」という視点で人間の行動を語るなら
「性欲」より「食欲」の方が誰しも持つものだぞ?
「毎日する」って定義ならウンコや小便の方が回数が多いぞ?

俺はフロイトの「性の抑圧」的解釈が生物学的っぽい彩りを
与えちゃった辺りが、生理現象の1つに過ぎない「愛と性」を
「人間の本質」みたいに捉える間違いにつながったのでは
ないかと思うのだが?

それに、今でさえ人工授精や代理出産が可能な時代。
そう遠くない将来、「人工子宮」とかもできて
「出産」が必然じゃ無くなる気がする。

今は「自分のお腹を痛めて産みたい」と女性は
言うだろうけど、代理出産の安全性が高まって
カジュアルになれば状況は変わる。

CDが出たての時「ビニールのレコード盤の音質がいい」
とか言ってた奴が結構いたが、今じゃ誰もが抵抗感なく
CD使っててビニールの需要は殆どない。それと同じだ。

そうなると、さらに「恋愛」は本能から「娯楽」に移行する。
ますます恋愛は「必然」じゃなくなってく気がするのだが…
なーんて近未来的考察。
by petrosmiki (2005-08-05 03:55) 

へぼや

 これ関係で見て回ったブログの中で、「そもそも自由恋愛という概念自体、戦後において日本に輸入されたモノに過ぎない。歴史がとてつもなく浅いのだ」 という様な記述があって、なるほとなるほど、そういう見方もあるか、と感心したモノです。
 本能的、まぁつまり、ヒトというイキモノの群れ、種と個を維持繁栄するという事において言うならば、牝が安全かつ生き延びやすい遺伝子を残すように動くことが自然で、文化という厄介なモノを得た人間の場合、それは身体的強靱さのみ成らず、いかに蓄財し安全な育成環境を得られるか、という方向に流れる事は、至極アタリマエなわけですわよね。
 朱子学的、儒教的な家長絶対制度も、イスラムの一夫多妻制も、売買婚的制度も、それぞれの時代それぞれの土地や文化背景に適応させたカタチで、そういう有用なシステムとして使われていた。
 恐らくは、キッカケの一つには人権問題というモノがあるのでしょうが (儒教的家長制度にしろ、キリスト教的父権の価値観にしろ、現代の視点で見れば女性やコドモを抑圧することで成り立っているシステムですから)、けれどもこの 何よりも 「自由恋愛こそが、最上の男女の関わり方だ」 というアジテーションは、たしかに恐らくはマスメディアの金銭的都合で広められた新興宗教なんでしょうなぁ。
 そう考えてゆくと、アンチテーゼである方も、“純愛教” に入信しているという面もありますわ。
 
 あとはまぁ、個人的にはこの、恋愛資本主義に対するアンチテーゼとしての萌え至上主義って、レンアイコンテンツに金を落とすか、モエムーヴメントコンテンツに金を落とすかの違いでしか無ぇよなー、とも、思ったりはするわけです。
 ま、自分の意志で払いたいモノに払うって言うのは、良いことですけどもね。
by へぼや (2005-08-05 06:09) 

緑川だむ

 萌えムーブメントってのも、どうもオタク趣味が恋愛資本主義にいつの間にか取り込まれてないかって気はするんですけどね。リアルだろうとバーチャルだろうと色事を重要視する時点で負けじゃないのかって気が。
 一般人を恋愛軸上ののプラス査定、萌えオタを恋愛軸上のマイナス査定だとするとガノタだの飛び地だのクレーターだの、座標軸を無視した虚数次元のほうに行ってしまうんでないと「恋愛とかやってたら負けだと思う」とは言えない希ガス。
by 緑川だむ (2005-08-06 02:10) 

へぼや

 「実在しないオンナに対する情念のために金を費やす」 ことも、
 「実体のあるオンナに対する情念のために金を費やす」 ことも、
 臍下三寸から来る衝動に突き動かされての消費行動として見れば、同じですわいなぁ。

 敢えて穿ったモノイイをしてしまえば、『電波男』の著者の人は、所謂萌えムーヴメントの方で商売している人ですから、恋愛資本主義サイドに客を持って行かれるより、きっちりと自分の縄張りの中の 萌え資本主義 に準じてどんどんゼニカネを使うって貰った方が、当然都合はよろしいのでしょう。

 ま、あたくしは実際、どっちに対しても個人が好きでやる分には否定はしないのです。好きなモノに好きに金を払えばよろしのです。それでハッピーになれるならモウマンタイです。
 僕はなけなしの金を、ジャイヴの翻訳アメコミにつぎ込むのです。

 『アストロシティ:コンフェッション』 がもう、めちゃめちゃええのですよっ。
by へぼや (2005-08-06 03:31) 

ぺトロンに首っ丈

CIRCUS読みました(買ったよ)
ブログで要望したことがまさか雑誌の記事にしてくれるとは感謝感謝。
次もなんか要望したら雑誌に掲載してくれるのですかね?
お体お大事に。
by ぺトロンに首っ丈 (2005-08-06 08:46) 

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