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入れ墨騒動 feat.『3.11以降日本人は目覚めたのだ』と申される、が。 [ヘボ論]

 さて。
 僕らの大好きハーシモートー(ミーツハーシー、の発音で)さんやら、テレビでとある女性タレントが話題にしたりとかで、そこそこ話題の、「入れ墨騒動」。

 僕は恐らくこの件に関しては他の人と違う観点でモノを言っていて、また今回も違うことを言うのだけど、何か前にもこの件について触れたよーな気がするのですが、ちらっと一覧でタイトル観ても、いつぞやのロシア人2人組の名前が挙がっていないので、どうやら書いていなかったらしい。


 で。

 まず、入れ墨の「そもそも論」は、「呪術」なのですよ。
 罪人の証とされるのはその後。しかもそれは「世界各国で」ではない。
 本邦においてを言うならば、中国から入ってきた儒教的な刑罰としての入れ墨観。

 現にマオリ族なんかでは「入れ墨=罪人の証」とされていないので、今でも文化的伝統として入れ墨をしている。

 西欧での「現代」のタトゥー文化は、それら非キリスト教的伝統を敢えて取り入れるという、いわばアンチキリスト的な思想が源流にある、とも言える。
 これは基本的に非キリスト教文化圏である日本人にはなかなか分かりにくい感覚だろう。
(いきなり、ブラックメタルの由来とは北欧における文化復興としてのアンチキリストなのである、なんて話をされても良く分からんしねー)
 勿論アンチキリスト教的価値観というのはやはり、その文化圏におけるメーンカルチャーに対する反発があるので、結果としてギャングコミュニティに集約されやすい。
 マオリ族自体も貧困や差別などの背景から、結局ギャングコミュニティに飲み込まれていったりしている歴史的背景もあるので、この辺りは実に複雑でヤヤコシイ。

 ま、そういう「呪術としての入れ墨」という観点からすれば、某芸能人の方が、「自分の気持ちを整理するためにタトゥーを入れた」というのは、ある種まっとーもまっとーであり、王道も王道。
 正に、原初的呪術としての入れ墨として、正当なのだ。
 "タトゥー"だから軽々しい、んじゃなくて、日本の現代のそれを言うのであれば、そういう現代の西欧におけるタトゥーの文化的背景を考えずにただ形から真似ている、というのであれば、その思考が軽々しい、とは言えるだろうけどもね。

 
  
 そして、「本邦において」を論ずるなら、「入れ墨」と「彫り物」が、全く別のものとして文化的発展を遂げていた事には触れないとおかしいのだ。
 
 本邦、江戸時代において「入れ墨」は、罪人の証として「入れられていた」もの。
 しかし「彫り物」はそれらとは全く異なる存在だった。
 江戸時代では、町人、特に江戸っ子というのは皆、彫り物を競って入れていた。
 文字通りに、江戸っ子の"粋"を競う、お洒落として、だ。
 火事と喧嘩は江戸の華。
 職人、とび職、大工はもとより、江戸の町人文化におけるスーパースター選手である火消しなんてのは、火事の時には上をはだけて彫り物をひけらかす。
 命がけの火消しという仕事をする上での、まさに命がけのパフォーマンス。
 暗がりの中、火に映える裸体に、精緻で華麗な彫り物。
 そいつに、粋を感じるのが江戸っ子であり、まー、よーするにモテるのだ。そーゆーのが。
 元祖DQN的思考ではあるし、僕なんかは(モテたくはあるけれども)とてもじゃないが御免被る。
 何れにせよ、当時における「彫り物」というのは、「そーゆーもの」だったのだ。

 勿論、士農工商の身分制度がガッチリと固められていた時代。
 武家社会の文化的価値観と町人のそれとは異なるものが多い。
 血の穢れを嫌い、身体に傷を付けること、損なうことを恥とする儒教的武家社会の価値観にとっては、彫り物も決して褒められたものではない。
 んだからこそ、「この桜吹雪が目に入ぇれねぇか!」 の遠山の金さんが成り立つのだ。
 若き日の遠山金四郎は、家出をして町人暮らしをする際に、武家社会的価値観へのカウンターとして、又、町人になりきるために、彫り物を入れ(ようとし)た。
(現実には、おそらくほんのちょっとしか入れなかったのではないか、と言われている。桜吹雪どころか花びら一枚あったかどうか、ってな具合で)
 
 
 さて、それじゃあいつから、「彫り物」も「入れ墨」もひっくるめて、「けしからん!」 となったのか?
 
 ご存知、明治維新から、である。
 
 明治維新のあとの新政府は、とにかく脱亜入欧、「日本的な、古い因習、野蛮で劣った文化」はどんどん捨て去り、「西欧的で進歩的な文化、価値観」を導入しようと躍起になった。
 同時に、「富国強兵」を目指すため、「国民皆兵」 をスローガンとして、「国民全てに、武家社会的価値観を押しつけよう」とした。
 要するに、「国民全員が、国のために死ぬ忠義の士と化す」 という事を、だ。

 その中の一貫として、「入れ墨、彫り物の禁止」があったのだ。
 
 
 本邦における「彫り物」は、「明治期に、西欧に媚びようという新政府の方針の下、よからぬもの、野蛮なもの、けしからんものという事にされた」

 そもそも論として語るのであれば、第二が、それだ。

 今現在、彫り物もタトゥーも入れ墨も、一緒くたに語られてはいるけれども、確かにそれらの違いは本質的には無い。つまり、使われている技術も行為そのものも、同じものだ。
 単に文化的由来や背景が異なっているだけだ。
(細かいことを言うと、所謂彫り物の技術はジャパンイズナンバー1であり、西欧のタトゥーのそれとは比べものにならないほど精緻なのだが)
 しかし、その、文化的背景や歴史的由来というものの方にこそ、ここで語るべき本質がある。
 そもそも論として、「入れ墨なんて元々罪人の証だ」と言う人が居て、それはそれで一面的には事実ではあるけれども、その場合の入れ墨は、現代のタトゥーとは別物である。
 腕に線を「入れられる」ものと、自ら様々な意匠を「入れる」ものを、名前と使われている技術が同じだから「同じもの」というのは、「卵を焼いたら全部卵焼き」というのと同じで、それじゃオムレツやスフレの立場がない。
 確かに言葉としてならば、卵を焼けば「卵焼き」だろうし、墨を入れれば「入れ墨」だが、それでもオムレツとスフレ、だし巻き玉子と目玉焼きが別物なのと同様、彫り物と入れ墨、そして西欧におけるタトゥーはやはり別のものだ。

 で。
 明治以降。
 脱亜入欧する為の富国強兵、国民皆兵。
 それらの一貫としての「日本の中央集権化と武家社会的価値観の押しつけによる、"日本の町人文化、村社会の破壊"」があった。
 それらの中には、例えば浮世絵のように、「日本において見捨てられながらも、西欧で"再発見"されたもの」なんかもある。
 彫り物、もその一つではある。
 浮世絵の多色刷りが、世界にまれに見る高度な印刷技術であったのと同様、日本の彫り師の技術は、当時も今も世界ナンバー1なのだから。
(さてそれが、つまりは、「日本で捨てられた、世界最高峰の技術に支えられた文化が、西欧で評価されたからすげー」 的な事が喜ばしいのかどうか、だからというだけで価値観を変えるべきなのかどうか、は別として)
 
 明治期に維新政府によって「けしからん」とされた結果が、現代の我々の、「所謂一般的な入れ墨(彫り物、タトゥー)観」に繋がっている。
 
 つまるところ、「入れ墨って、ヤクザがやってるやつだろ?」 という、固定概念に、だ。

 ここで重要なのは、本末の転倒が起きているという事だ。
 「けしからん輩がやっているけしからんものだから、彫り物が禁止された」のではなく、「明治政府が彫り物はけしからんと決めたから、結果的に反社会的な人たち(つまり、ヤクザさん)しか彫り物をしなくなった」というのがある、という事。
 正に、これこそ『現代呪術作法』そのものだ。
 
 つまり、この話題に関しての「そもそも論」で「タトゥーの是非」を言うのであれば、「そもそもは、反社会的なものではなかった」になる (身分制度的な価値観の齟齬を除けば、だが)。

 明治以降、ずっとそういう形でけしからんとされた結果、「入れ墨(彫り物)はヤのつく人たちのもの」となり、さらには昭和後期から平成になって、「西欧のタトゥー文化」が、いわば逆輸入的に日本へと入ってきた。
 それらは三者それぞれに、文化的背景も由来も異なっているのだが、「彫り物けしからん」という明治政府の「呪縛」に囚われたままの人たちの中では、全く区別無く、「タトゥー(入れ墨、彫り物)は、ヤクザ(反社会的な人たち)のするけしからんもの」という意識、固定概念で留まっている、というのが。
 
 「そもそも論」からの、「現状」な、わけだ。



 で。
 こっからが、僕がこの話題で言う、「本題」。
 今までのは全部、「前提」であり、「前置き」。
 
 僕は、これらの事から、「タトゥーの是非」を論じようとしてるわけじゃあない。
 まず、個人的にはどうでも良い。
 別に自分が入れる気はないし、同時に入れる誰かを咎める気もない。
 ただちょっとタトゥーの入っているEロォスヴィデオ女優さんはちょいEロォス度が高まると思うし、同時にタトゥーを入れている男優のオラオラ演技とかは観ていてイラつくので、極力画面に出てくんな! とは思う。というか男優は画面に出てくるな! こちとらてめーのドヤ顔なんかカケラも観たくねーんだよ! 自己主張の強いEロォス男優みんなてぃむぽもげろッ!
(…失礼、取り乱しました)

「世間的にけしからんとされている事をするのにはリスクが伴う(ドヤ」というのが、現状認識として「間違っている」とも言わない。
「現状、そういう認識が一般的だ」という事実、それ自体が「無意味で、無価値だ」とも言わない。
 例えば大阪市の問題とは別の所で、テレビで某女性タレントがタトゥーを入れたことについて話したとき、同席していた某ショムニ女優が「何年か後に後悔しないって言い切れるの?」と問いつめて、まぁネットで大絶賛されたりしていたりしたらしいけど、それはそれで、「そーゆー考え方もあるだろう」程度には分かる。
 ま、「国民年金が払われないなんて誰が言ったの!?」 と言うCMを引き受けて、あとになって実は自分も未払いだったと発覚したとき、きっと彼女も後悔したのだろう。
 そしてその事から言っても、国民年金を真面目に払っても、どーせ返ってこないと払わずにいても、大なり小なり後悔なんかするもんだ。
 なので、僕に言わせりゃ、「後悔しない人生なんかあるかばかっ!」 でもあるし、「絶対に後悔しない選択を、なんて考えてやった選択で、絶対に後悔しないなんて言い切れるの!?」 ってなモンなので、実の所「タトゥー入れたら後悔する論」は本質的には馬鹿らしいとも思うが、その事もとりあえずは脇に置く。

 僕が、言いたい、の、は。 
  
 そもそも論や、多様な文化的背景、歴史的背景や、その他諸々。
 僕がここで述べてきた「前提」となる要素。
 それらを、踏まえた上での、「タトゥーの是非」を。
 論じている者が、殆ど居ない、という事だ。

 この話題、つまり、「タトゥーの是非」という事で、何かを声高に論じている「ような気になっている」人たちの殆どが。

「だって、みんなそう言ってるじゃん。みんながダメだって言ってるのにやるんだから、そんなのダメに決まってるじゃん」

 程度の論拠しか持っていない、という、その事だ。
「現状そうだと言われているのなら、それをそのまま受け入れて、何の異議も異論も唱えず、従う事“のみ”が、“正しい大人の在り方”で、そこに異を唱える輩は全て“馬鹿で我が儘な反社会的異分子”だから、“排除するべき”だ」
 という思考から、何一つ脱却できていないという、その事だ。

 なので、本文タイトルに戻る。

 
『3.11以降日本人は目覚めたのだ』と申される、が。

「全然、目覚めてなんかいやしねぇよ」

 と。

「3.11以降目覚めた」とされるのは、
「『みんなが安全だ』、と言っていた原発が事故を起こし、メルトダウンが起きた。
『みんながそう言っていた』なんてことに依存して、『現状そうだと言われていること』 に安住していたら、こういう事になる。
 だから、『みんながそう言っていた』で思考停止せずに、その、背景をもっと、1人1人がちゃんと考えなければならない」
 という、そーゆー話だ。
 しかし、このタトゥーの話題に関して、禁止しているハシモト始め、「論じた気になっているほとんどの人」の論拠は、「だってみんながそーゆってるもん」でしかない。
 「みんなが安全だって言ってるもん」で、「なんとなく原発容認」していた人たち。
 「みんなが必要だって言ってるもん」で、「なんとなく原発推進」していた人たち。
 「みんながけしからんって言ってるもん」で、「なんとなくタトゥー禁止に賛成している」人たち。


 まったく、変わっていない。
 僕がこの話題で言いたいことは、そーゆー事だ。

 目覚めたフリと、考えているフリ。
 そして、そういうフリをしている人たちが、国歌斉唱云々、入れ墨云々という耳目を集める派手なパフォーマンスで、「公務員改革しているフリ」を、わいのわいので支持しているのだ。
 え、公務員改革って、そーゆー事だったの? なーんて事は、ちらとも考えずに。 




*--[追記]--------------------------*

 下記ブログ記事によると、江戸時代にも入れ墨禁止令が発令されたことはあるよーですな。
 まあ、浮世絵禁止とか贅沢品禁止とか、江戸幕府はたびたび「風紀の引き締め」として金鈴を出しているので、その一貫であったのでしょう。

mikawaケンイチの「江戸ケン」
旧暦による 「刺青禁止令!!」
http://edoken2.exblog.jp/15075645/

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コメント 2

タトゥー tattoo

残念な話です。
by タトゥー tattoo (2012-09-23 17:36) 

あlp

まったく賛同できない論旨ですね
by あlp (2013-03-19 15:48) 

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